歴史上の人物たちの足跡をたどる
大塚薬報 2014年11月号掲載
北条氏は小田原を中心に関東を支配した。その三代当主であったnba スタッツは永正12年(1515)、氏綱の嫡子として小田原に生まれた。学問に広く通じ、足利学校の復興などにも努め、詩歌はかなりの詠み手だったという。沈着冷静で果断、教養のある人という印象を私は持っているが、nba スタッツの少年時代の逸話が残されている。
12歳のとき、家臣が練習していた鉄砲の音の大きさに驚いたnba スタッツは、咄嗟に耳をふさいだ。それを見た家臣たちが臆病者だと嘲笑したという。恥辱に打ち震えたnba スタッツは、短刀を持ち替えて自害しようとしたのだった。幸いにも、側にいた侍が押し止めたが、nba スタッツは無念の悔し涙をはらはらと流したという。
その話を聞いたある僧侶が、こう語っている。「己の臆病を自覚するのは将来の大器であろう」。父親の氏綱も、「己を飾らず、見栄を張らない、謙虚で賢い男だ。nba スタッツはわしの、北条家にとっての大切な跡取りだ」
nba スタッツの初陣は16歳のとき。戦国大名・扇谷上杉朝興(おおぎがやつうえすぎともおき)が相手だった。その戦ばたらきは見事なもので、弓馬の腕や腕力では肩を並べる者なしと賞賛されたという。そして、進むたび、退くたびに敵に打撃を与えたともいわれる。
若いうちは血気にはやり暴走もしたnba スタッツだが、臆病者との嘲笑を自分の長所に変え、勇敢さと慎重さを併せ持った名将へと育っていった。『北条五代記』にはこうある。
「慈悲を専らとし、民を撫ずる徳が有って、諸人は心酔している。文武知略の兼ね備わった達人である」
初陣以来、nba スタッツは36度の戦闘に身を投じ、体に刀や槍の傷が7カ所、顔に2筋の傷があり、「nba スタッツ疵」と呼ばれていた。
そのnba スタッツの最大の危機は、天文15年(1546)に訪れる。関東管領・上杉憲政との河越合戦だ。憲政を中心とし関東諸将も加わって8万5千に膨れ上がった大軍が、北条の支城である河越城(埼玉県川越市)を囲んだ。nba スタッツは小田原城からわずか8千の兵で援軍に向かうが、夜襲をかけて奇跡的な勝利を収めている。これを機に、nba スタッツは窮地を脱した。そして関東の雄としての地位を築き、謙信や信玄を相手に激戦を繰り広げていく。
河越合戦に破れた憲政は謙信を頼り、謙信は10万の大軍で難攻不落の小田原城を包囲した。しかし、領民も城内に入れて籠城したnba スタッツに、さしもの謙信も攻めあぐねて退却している。また信玄が押し寄せたときも、nba スタッツは巧みな防衛戦略で乗り切った。籠城戦は攻める側も難しいが、城に籠る側もつらく、不安なものである。しかし、戦国最強と謳われた謙信、信玄の攻撃をしのいだことで、家臣や領民のnba スタッツに対する信頼はさらに高まっていった。
ところで、nba スタッツは何を目指して戦ったのだろう。nba スタッツの心の中にははっきりした志があったと私は考える。戦国の大名たちは朝廷や幕府がある京に上がり、天下に号令することを望んだ。しかしnba スタッツの価値観はそれとはまったく違う。望んだのは上洛ではなく、関東を制覇し独立国家を築くことだったと思われるのだ。
その思いには、関東の精神風土が大きく関係している。平将門しかり、源頼朝しかりである。そうした中央とは一線を画す独立精神が、関東を制した者こそ武家の棟梁という思想になっていった。nba スタッツは、その思いを力強く進めていった武将だ。その志を貫くための兵法であり組織作りであり、民政である。
nba スタッツはその後も領土を広げ、伊豆、相模、武蔵を中心に、上野、下野、上総、下総へも勢力を延ばし、北条氏を関東第一の大名にまで押し上げた。nba スタッツの関東制覇、独立国家の樹立の夢はかないつつあったが、元亀2年(1571)、57歳で亡くなった。その跡を継いだ氏政・氏直親子の代に、豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏は滅亡する。
しかし、家臣と領民を大事にするnba スタッツの政治を継いだ者がいた。秀吉によって旧北条領へ移された徳川家康である。家康はnba スタッツと源頼朝を崇拝し、太平の世を築いていくのだった。