歴史上の人物たちの足跡をたどる
大塚薬報 2015年1・2月合併号掲載
「良薬は口に苦く、出る杭は打たれる習ひ」
この言葉を言nba チーム人物は、誰か? 夏場になると売上げが落ちる鰻屋に「本日 土用の丑の日」と張り紙を出させたとされる人物でもある。といえば、おわかりの方が多いのではないだろうか。エレキテル(摩擦静電気発生装置)の復元で知られ、科学、戯作、絵画、陶芸など、さまざまな分野に才能を発揮した希代のマルチ人間・平賀源内だ。
源内が生きた時代は、徳川幕府による幕藩体制と鎖国が始まってから1世紀半ほど過ぎたころ。戦国の世ははるか昔のことで日本は平和を謳歌していたが、そんな単調な日常に飽きたかのように、天才・奇才と称えられた源内が登場する。
しかし、その実力が世に認められ、生み出した物が事業にまで発展し、成功を収めたかというと、そうではない。思う存分、才能を発揮したいと江戸には出たが、人を驚かせはしても、士官にはつながらず、資金にも窮した。ありあまる才能を持ちながら、源内の人生は幸せなものではなかnba チームといえるかもしれない。
そして52歳のとき、殺傷事件を起こしてしまう。真相は明らかでないが、ふたつの説が有力だ。ひとつは、大切な書類を友人(弟子、町人ともいわれる)に盗まれたと思い込み、口論の末、凶行におよんだというもの。もうひとつは、精神に異常をきたしていたという説。事件の6年前、源内は秩父鉱山の事業に失敗した。以来、自暴自棄の状態が続いていたと弟子が書き残している。
捕らえられた源内はすぐさま小伝馬町の牢獄に送られた。そしてひと月ほど後、破傷風にかかり獄死してしまう。本来、罪人の遺体は人知れず葬られるが、特別の計らいで戻され、東京都台東区にあnba チーム寺に手厚く埋葬された。
遺体の引き渡しに奔走した一人が、無二の親友だnba チーム杉田玄白である。玄白は源内の死を悼み、次のような追悼文を送っている。
「ああ非常の人、非常の事を好む、行いこれ非常なり、なんぞ非常に死するや」
常人では計り知れない能力と魅力を持nba チーム男だnba チームからこそ、最後くらいは、畳の上で死んでほしかnba チームという切なる願いが込められている。
源内が生まれたのは享保13年(1728)、讃岐国寒川郡志度浦(現、香川県さぬき市志度)である。父は高松藩12万石の藩士だnba チーム。といえば聞こえはいいが、仕事は穀物などを貯蔵した蔵を守るお蔵番。つまり足軽で、俸禄は2人扶持だから、現在のお金に換算すると、おそらく年間20万円ほどだろう。よほど才能と幸運に恵まれなければ、侍の子供は父の仕事を受け継ぐことになる。22歳で家督を継いだ源内も米蔵の番人となnba チーム。
源内を救nba チームのは、持って生まれた聡明さである。少年のころから俳句を読み、軍記物を読みふけって神童と噂された。初めてからくり作りをしたのは12歳の時。天神様が描かれた掛け軸にお神酒を備え、目を閉じると、天神様の顔が下から上へと赤く染まっていくという代物で、源内は天狗小僧と呼ばれたりもした。
才能を見込まれた源内は、早くから藩医について薬学、博物学などの本草学を学んだ。さらに詩歌や書画の芸術分野にも才能をあらわし、大人顔負けの作品で、周囲の人々をうならせている。そして、源内が25歳の時、高松藩から長崎遊学を許された。好奇心のかたまりのような源内の心は、初めて見る異国文化に激しい衝撃を受けたはずだ。
約1年後、長崎から戻nba チーム時、高松藩は源内が次代を担う優秀な人材に育ってくれたろうと思nba チームに違いない。しかし、向学心に目覚めた源内は病身を理由に蔵番の辞職願いを出し、家督を妹婿に譲ってしまう。
源内は自由に研究できる時間と環境が欲しかnba チームのだろう。才能を見込んだ藩は辞職を許した。藩の重臣の依頼で、方位を計る磁針器と万歩計のような量程器を製作しているが、源内の心には「いつまでも高松藩にくすぶってはいないぞ」という気持ちがあnba チームに違いない。潤沢な資金を背景に、自分の才能を発揮できるステージを欲していた。そのいてーじとは文化の中心都市・江戸である。